いえかえろ

かんがえたこと わすれない

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MIU404を見ました

アンナチュラルは各事件の被害者加害者が主体(サブでメインの登場人物たちの話が進む)になっていた物語であるのに対しMIU404は基本伊吹と志摩の物語だった。(アンナチュラルみがあるのは4話の青池さんのところじゃないかなあ、あれは主に青池さんの話なので)自分はこれを見る前に履修した作品がめぞん一刻だったので「遺された人間」が主体にいる人間が真ん中にいる物を続けてみたことになるが、どちらに共通するのは信じて欲しいということを伝えるのに加えて、相手に伝えることに「お前より生きるよ(簡単には死なないという気概がある)」ということがあるのが特徴的だと感じた。

めぞん一刻に関してはあなたより一日長く生きますよということに加えて「忘れたくないものを無理に忘れようとしなくていい、無理に捨てなくてもいい、あなたの記憶のあの人も含めて(それがあなただから、)あなたをもらうから」ということで彼女をもらう(便宜上この表現をします)のだが、それも一つの答え方である。

さて、これがそのような話であるのに加えて、MIU404最終話で刑事やめたりしないよなという言葉が志摩に対して伊吹から発されたが、それも実際そのような意味も含む……「何かの位置から俺を置いたまま退いたりしないよな」という意味も多少は含まないか?死なないもやめたりしないよな?も伊吹から発されたものであり、両方とも志摩から自発的に何か問いかけも返答もないのであるが……しかしどちらにせよ死なないのであるし、刑事もやめないのである(多分)。意図的なものであるなしは別としてリフレイン構図なのだ。

また、昨日読んだものとして『現代思想《恋愛》の現在』の中村香住『クワロマンティック宣言』がある。

詳しくは是非とも買って読んで欲しいのだが(とても良かったので)、つまるところ伊吹と志摩も互いに重要な他者であるのではないか?と思う。

そもそもこの文の題であるクワ(クォイ)ロマンティックquoi romanticというのは文の中で引用されていた「恋愛の指向を適用することはここでは意味をなさない」が一番わかりやすいと思う。その上で著者はそれでも己にとって大切な人というのを「重要な他者」と位置づけ(便宜上である。文を書くうえでいちいち長く書くのは不便であるためと記されていることを留意したい)ていて、これは恋愛の文脈にのせたものではない。(上の自分のツイートに実際にその意味を引用しているので見てね)

今となってはサブカルチャーにおいてブロマンスという言葉はBLの文脈を多大に含みすぎているように聞こえてならない。作品名とブロマンスでツイート検索をすると、延長線上でラブを含まない・恋人未満である→ブロマンスであるという二元論のような文脈を含んでしまうようになっているように感じる。(安易な、キャッチーな、布教として用いているのはわかるし、そのような流れで使っていない人もいるが、一部には存在するのは確かである)実際そこはそうではなく、二人の文脈、関係、温度、を考えていった末にたどり着いた答えが関係性のジャンルとして「ブロマンス」にカテゴライズされるものだったの方が個人的にはたどりつき方として好ましい。

その上で、この『クワロマンティック宣言』における「重要な他者」という表現を引用したい。感電の「たった一瞬のこのきらめきを 食べ尽くそう二人までくたばるまで そして幸運を 僕らに祈りを まだ行こう 誰も追いつけない くらいのスピードで」「よう相棒 もう一丁 漫画みたいな喧嘩しようよ 洒落になんないくらいのやつをお試しで 正論と暴論の 分類さえ出来やしない街を 抜け出して互いに笑い合う」「愛し合うように喧嘩しようぜ」がこの二人においての結論であるが、このMIU404におけるブロマンス(あえてこう言う言葉を置くが)的な関係、これは重要な他者と表現できるように考える……