いえかえろ

かんがえたこと わすれない

「そばかす」について

「そばかす」の内容について満遍なく触れてます。パンフレットの内容にも

 

映画「そばかす」を見てきました。自分とこの映画の関わりとかも書いてる。まとまりがないnotheroinemovies.com

 

新鮮な感想から。

 

そばかすという映画はいわゆる地方に生きるアセクシュアル・アロマンティックの人間が主人公として描かれていて、普段から感じている世への違和感とか、人との感情の相違、そうして起こる事象とかが結構あるあるというか、そうだよね〜となる感じで細かに描かれている。

自分は初めからずっと友達のつもりでいるのに、なんかそういう恋愛的な目線で見られ始めるとか、恋愛関係になれないのなら友達ですら無くなる関係性への戸惑いとか、好きなタイプは?どんな人が好きなの?で始まる話題とか、親(まあそりゃ大抵の親は恋愛できる人ばっかなので)からの質問攻めとか、そういうのに馴染めない違和感のある生活をずっと送っている主人公・佳純の描写が前半のメインなんですが。後半では友人・真帆との出会いや、自分のことの発露、同居計画、同居計画の頓挫、家族からの無理解、友人への祝福とかが展開として入ってくる。

 

 

パンフレットではわざとアセクシュアルやアロマンティックの名前を出さないことについて「そういう名前の特別な人の話なんだと客観的に見られないようした(要約)」と書かれてあり、そのような意図がある上でこれをそう作っているなら、誠実な作りである映画だと感じた。また、名前を出さないことが効いている部分がもう一つあり、それは上記にある通りゲイやレズビアンなどの同性愛者の呼称はそのまま出てくるところで、この両方により「恋愛する(できる)人たち」は存在としてあり、「恋愛しない(できない)人たち」は表面に浮かんでこないような作りになっている(あくまでこの映画では)。

妹がああ発言するのだって、"男性とそういう関係になろうとしない、女性のとても仲の良さそうな友達と同居しようとしている、相手が結婚するかもしれないからといきなり計画が頓挫しても「祝福するよ」と強がっているように見える"という状況を見て、妹の中でお姉ちゃんは女性が好きなんだという結論に至ったからであり、「恋愛は皆できるもの」という前提を持つグロさが割とがっつり、ありありと描かれている。

 

佳純は純粋に友人の結婚について祝福している訳であるが、それは佳純がそのような人であるから、という個人の性格を抜きにしても、どこかに「恋愛的な繋がりに負けるのは仕方ない」諦めというものはあるだろう。実際、一緒に暮らしている様子を想像するほど佳純は同居を楽しみにしていた訳であるし、多少「なんでなんだ」と思ってもいい場面である。

(そもそも、佳純はこの映画において、抑圧されていても声を大きくあげることはないし、デジタル紙芝居で一人で生きたいように生きるシンデレラを描いてそれについて「多様性とかはいいと思うけど、純粋な子供に変な価値観を植え付けるな」(←は?)と指摘されても指摘されても謝って終わってしまう、「諦めた」人であるとも描かれている。)

 

でも、そんな「諦めた」人はどこかにいるし、諦めていても声を出してみれば、案外同じような人間がいることに気付けるのかもね、このままでもいいと思えるかもねというのがこの映画なのであるが…ちょっとここまで書くと全部書きそうになるのでここらへんにしておく。

 

細々したとこなど

 

自然にそのような目線に入ってくるって今まで恋愛感情を持ったことのない人間からするとプロセスがかなり謎で、どうやってどの時点からどのような理由でその意識や重さが変わるの?というのをずっと疑問に思いながら生きてきたので、わかるよ…となった。佳純からしたらずっと「仲のいい、ちゃんと遊ぶことのできる友達(しかも恋愛する気がないらしいので他の人より気が楽)なので旅行も旅行として楽しむ」という意識なのに、いつの間にか向こうは「好きだ、相手も自分と仲良く遊んでくれているから自分のことをそのような目で見てくれているのではないか?泊まりってそういうことだよね?」になっているんだよな。

もちろん佳純はどっちかの部屋で酒を飲もうよと言われて逡巡するし、そのドアを開けていいのかも迷う。別にガードがないとかではなくて、そこに一縷の希望をかけて、ドアを開ける訳です。

 

ここで佳純は「とてもいい友達だと思ってる」「そもそも自分は人を恋愛的な目線で見れないし、性的な魅力もわからない人間なんだ」と告げ、「恋愛的な関係ではなくても。二人の良い関係を築くことはできないかな…」とダメもとで提案するのだけど、相手は恋愛感情は誰にでも備わっている大前提があるから(そりゃあ自分にあるんだからそう思うよね)、佳純は「自分に魅力を感じていないから自分を傷つけないような言葉で拒否してきている」と感じて「(そのような関係になれないなら)もういいよ」という訳で。佳純の提案はすごくわかって、それを求めて良い関係を築けるのであればすごくいいよね、と思うのであるが、相手からしたら佳純の提案は相手にとってショックだし、身勝手に感じることもあるのかもしれないなとも思う。

言うなれば、単にこれは「相手と自分の要望がマッチしないのでお別れしましょうね」という話でもあり、仕方ない話でもあるのだが…

 

 

この映画から少し飛ぶが、Aスペクトラムである人たちのことについて、そのような性質を持つ人たちは「無い」ことを自覚している訳であるが、「無い」ことの証明って難しいよね、という話もある。

ツイート内容が全てなのであるが、無いことって、言い切れないから難しい。

別の作品を引用すると、『やがて君になる』の侑は「私にとってはそれは自分から掴みに行くものだった」と言うが、掴みに行くきっかけがなかったら侑にとってはそれは「無い」と思ったままだったのかもしれない。でも有ったんだよね。一方で槙くんは「それを自分に向けられると辟易するしやめてほしい」、という形の「無い」ものだった。それははっきりとしていたし、彼には「無い」と言い切れる自覚がある。「無い」と思っていてもそれは従来の形で自分に降りかかるようなものでなかっただけで「有っ」たり、はっきりと「無い」と分かったりする場合だってあるのである。

「無い」ことに様々な形があることに関連して、

佳純は「恋愛しないし、性的な魅力もわからない、でもそれでいい。自分の人生は一人でも寂しく無いし、周囲の人らの中で自分なりに楽しく生きますよ」というスタンスであるが、「恋愛しなくていい」と思っている人たちがいる中で「恋愛してみたいのにわからないからできない」という人がいることももっと可視化されてもいいのになとも思う。(いやまあ自分がそうであるだけなのだが…)絶対そのような人たちって無数にいて、その意識があるから今に限ったとしても自分が「今そうである」と言えないのだろうと思う。

Ace/Aroの人のインタビュー記事などを読むと、自分には必要なくて辟易するものだったと言う人のインタビューがほとんどであり、それ以外の人がなかなか表出してきていない。そこが多様でもいいのになと思うとともに、そう思っている人たちしか「無い」ことを無いと受容して表立って言えないのかもしれないとも思う。

 

自分の話になってしまうが、何であるという明確なものがない以上自分を断言したくないとも思っているので、「これかこれに近い状態かな…」というスタンスでいるが、だからといってそれが気にならない訳でもないし、将来に対する不安も残っている。でもそれも自分だし、それが無かったら自分ではないとも思うので、仕方ないがまあ自分はこんな人間であるという意識でいる。この映画はその意識を強くしてくれたというか、「まあしゃあないので自分らしく生きていこうや」ということをより大きく思わせてくれた映画であった。

 

あまりまとまりがなくてよくわからない文になったが、これはすごくいい映画であるし、描き方も真摯であったし、色々思うところや考えることが多い映画であった(ただ、似たような性質を持つひとにはかなりつらい描写もあるし、性質抜きにしても多分つらいと思うので気をつけてほしい)。

映画を観終わった後の主題歌、羊文学が作った「風になれ」という曲がすごく沁みるので、それもぜひ体験してほしい……。